お城村はじめて物語

お城村はじめて物語

丸亀市のシンボル丸亀城は、木造の天守が現存する12城の1つで、高さ日本一の石垣は「扇の勾配」と呼ばれる独特の反りを描き石の芸術品と言われています。

お堀と緑に囲まれ、市民のいこいの場として親しまれているこの丸亀城を舞台に毎年開催されているお城村。
皆さんはその「お城村」が「丸亀おしろ祭り」そのものとは異なるというのをご存知でしょうか?

「お城村」は「丸亀お城まつり」と連動し、その一部として行われていますが、その運営の理念はもともと大きく異なるものでした。

そこで、「お城村」が始まった当時のことを知る人に立ち上げの経緯やその思いを聞いてみたくなりました。

第30回お城村実行委員長 岡田 将一郎 をインタビュアーとして、今から41年前の立ち上げを主導した、第10代丸亀青年会議所理事長の中島さんに当時のことを振り返っていただきながら、「お城村」の意義やあるべき姿についてうかがいました。

活気ある丸亀のまちづくりを考える

岡田:今日はよろしくお願いします。さて、僕は昨年、新しい丸亀市となって初めてのお城村の実行委員長をさせていただき、僕なりにいろいろ苦労したり、思うところがありました。
今日はそのお城村を立ち上げられた中島先輩に当時のお話しをいろいろお聞きして、お城村はどうあるべきか、今後どうなっていくべきかということをお聞きしたいと思います。
まず、はじめに中島先輩がどのような立場でお城村に関わられたのか、どのような立ち上げの経緯だったのかをお聞きしたいのですが。

中島:今日はよろしく。僕はお城村がはじまる前の1974年当時、丸亀青年会議所(現在は善通寺青年会議所と合併してさぬき青年会議所となっている)のメンバーとしていろいろな街作りの事業に携わっていました。それで、地元の大きなイベントにも関心があったんです。
それで、その当時のお城まつりっていうのは市長さんと市議会の議長さんがお殿様に扮して馬に乗って家来を引き連れた大名行列をやって、あとは夜に丸亀踊りがあるだけのものだったんですよ。そして、参加者は年々減っている状況でした。活気ある丸亀のまちづくりを考える上で、これはいけないだろうと思ったのがまず第一ですね。

市民なら誰でも参加できる場を作って提供する

岡田:青年会議所のメンバーとして活気ある丸亀の街作りを目指して活動をはじめられたわけですね。僕自身も青年会議所のOBなわけですが、お城村は青年会議所の事業としておこなわれたのですか?

中島:いえ、青年会議所は豊かで明るい地域作りをするのが目的ですが、青年会議所という組織が表に出過ぎたのでは、市民から自発的な活動を引き出すのに影響してしまうのではないかと考えました。それで、青年会議所はそのための活動の場を作ることに専念しました。結果的にその選択は正解だったと思います。

岡田:青年会議所はお城村というステージをつくる裏方に徹したわけですね。それでは、お城村という形を思いついたきっかけは一体どういったものだったのでしょう?

中島:活気のない当時のお城まつりを見て、何かやらなくちゃいけないと思っていたところ、東京都町田市の青年会議所で「20万人の個展」というイベントを行って大成功しているという話を聞いたんです。それで、それがどんなものか見てみようということで早速そのビデオを取り寄せたり、実際に視察にいったりしました。それが発想のきっかけになったかもしれませんね。

岡田:その「20万人の個展」っていうのはどういうものだったんですか?

中島:それは市民なら誰でも、自分の得意な絵でも、書でも、音楽でも披露できる、そういう場を作って提供するという市民参加型の祭りだったんですね。市民一人一人が主役だという点でそれは当時のお城まつりとは対称的でした。そしてその催しは当時、新興住宅地として発展しつつあった町田において旧来からの住民と新しい市民との融和をはかる上で大きな役割をはたしていたんですね。

岡田:そのことは昨年飯山町・綾歌町と合併した新しい丸亀市にも当てはめられるかもしれませんね。僕の時もマスコットキャラクターのデザインを依頼したとき、綾歌のはっさくや飯山の桃をとりいれていただいたり、急ではありましたけどスタッフにも綾歌から入っていただいたりと、僕なりに努力はしたんですが、合併後間がなかったこともあって十分ではなかったかもしれません。その点では今年の西本実行委員長に頑張ってもらいたいですね。

中島:確かに合併直後の今の丸亀と当時の町田は似ているのかもしれませんね。そういうお手本を見て、お上からのお仕着せでなく、市民が自発的に活動できる場をつくるという目的がはっきりしてきたのかもしれません。本来お祭りというのはそういうものであるべきだというおもいがずっとあったんですが、その頃のお城まつりには市民が自発的に参加できるような余地はありませんでした。それで、まず従来のお城まつりとは全く別に当時は全く使われていなかったお堀の中、つまりお城を使うことにしたんですね。

お城を市民に開放して自由に使わせて欲しい

岡田:僕も子どもの頃はお城の中でよく遊んだものですけど、それでもそういった大々的なイベントにお城をつかうにはいろいろと手続きも大変だったんじゃないですか?

中島:それはそうですよ。重要文化財を含む丸亀城でいわば無礼講のお祭りをやってしまおうというのですから、いろいろな折衝と役所まわりはそれはもう何度もしましたよ。お役所というのは前例のないことにはなかなか許可を出さないものですが、僕のやろうとしていたことには全くその前例がないんですから。説得するのは大変ですよ。でも、「お城まつり」という名前の祭りに、そのお城が全く使われていないのはおかしいんじゃないかという思いもあったんですよ。結局その思いが実現するまで足かけ2年かかりました。そして3年目にようやくお城村が産声をあげたわけです。

岡田:2年がかりですか。それは大変なエネルギーが必要ですね。具体的にはどのように交渉をすすめられたんですか?

中島:まず、市に対してはお城まつりの中の1日、24時間だけで良いからお城を市民に開放して自由に使わせて欲しいと交渉しました。これが一番大きなハードルでしたね。そのためにも市からは一切予算をいただきませんでしたよ。ですから、次はどうやって予算を確保するかが課題になりました。

岡田:今もお城村の運営には多額の費用がかかっています。当然スタッフは手弁当のボランティアで、そういう人達によって運営が支えられているんですがそれでも必要な資材や諸々の経費でお城村の台所事情は決して楽だとはいえません。前例がないからリスクもあったと思いますし、予算もかなり必要だったと思うのですが、そのあたりはどのようにされましたか?

中島:必要以上にリスクを恐れていてはなにも始まりませんよ。僕たちの時は青年会議所の事業で出した利益や、お城村の屋台での販売収入、看板広告費といったものを運営に充てました。そういう立ち上がりの経緯がありますから、お城村で営利目的の物品販売は禁止されているんです。それを認めてしまうことは市民の自発的な活動の場を提供するというお城村本来の目的を曲げてしまうことになりかねないんですね。時代も変わっていろいろと難しいところもあるでしょうが、そこは優秀な皆さんですから頭と体を使って、今の時代にあったやり方を見つけて欲しいですね。

皆でつくる皆の祭り

岡田:最初は人がどれだけ集まるか心配ではなかったですか?

中島:そうですね、今にして思えばそうなんですが、不思議とうまくいくという確信がありました。でもその為の事前調査はしっかりやったんですよ。例えば雨が降ると人足は鈍りますから過去のデータを見て雨の少ない時期を選びました。それが5月の中旬から下旬だったんですね。この時期は他のイベントと重なることもないのでその点でも好都合でした。

岡田:昨年からはGW期間中の開催になりましたが、お城まつりの行われていた時期にはそういう理由があったんですね。その他に人を呼ぶためのイベントについてはどうでしたか?

中島:自衛隊の音楽隊を呼んできてドリルフェスティバルをやりましたね。実はちょうどその頃、その音楽隊が日本の童謡を演奏するのを聴く機会があって大変感銘を受けました。確か関西の中部方面隊でしたね。それで、丸亀の皆さんにも本格的なブラスバンドの演奏を聴いて欲しいと思ったんです。これは大変盛況でけが人が出るんじゃないかと思うくらい人が集まりましたね。徳島まで行って阿波踊りから借りてきた仮設の観客席をグラウンドのバックネットのところに設置しましたが、それでも人が入りきれずに大変でした。

岡田:その他にもなにかありますか?

中島:幼稚園単位での参加を要請してパレードをしました。そして、これが大事なことなんですが皆でつくる皆の祭りだということで、そういった参加者の名前も全部パンフレットに印刷したんですよ。文字は小さく見にくかったかもしれませんが、それはお祭りの意義を考えたときにとても大切なところなんです。

岡田:今は「みんなで作ろうみんなの祭り」というのがお城まつりのスローガンになっていますが、もともとはお城村がそのルーツだったんですね。

中島:そうです。そのスローガンが有名無実な御題目になってしまってはいませんか?今、お城村を運営している皆さんは常にその原点にたちかえった視点を持って欲しいと思います。それから、必要以上に遠慮することはないんですが、お城は先人達が我々に残してくれた貴重な財産ですから、感謝の気持ちを持って大切に使って欲しいですね。僕たちの時代に随分苦労をして得たものが、軽んじられているようなところも見られて残念に思います。お城村の村長さんも、丸亀城や丸亀の歴史に深く縁のある方をお呼びするとか、パンフレットなどにお城の歴史などを紹介するとか、せっかくの機会をしっかり利用して欲しいですね。少し厳しい言い方になりますが、今のお城村は前年の慣例をそのまま繰り返すコピーのコピーになってしまってせっかくの魅力が薄れてしまっているようにも、慣例主義からの決別だった元々の立ち上がりが台無しになってしまっているようにも見えますね。

岡田:今日はいろいろなお話しを聞くことができて大変参考になりました。僕たちは今、お城村が城内を自由に使えることが当たり前だったり、城内で催し物があることがすっかり浸透して、必ず人が集まる、そういう前提で事を進めていっていますが、31年前にはいろいろなご苦労があったんですね。より良い街作りを目指して変革の能動者たらんとした先輩方の気概を忘れないように僕たちも頑張りたいと思います。今日はありがとうございました。

インタビューを終えて

インタビューの行われた和光産業応接室にて
中島先輩(中央)を囲んで岡田第30回実行委員長と西本第31回実行委員長

このインタビューは中島さんの闘病中にうかがったものです。

その後残念ながら、平成18年9月1日にご逝去されました。

私たちは、先輩諸氏の思いを受け継ぎ、ますます愛されるまつり作りに 頑張ってまいります。

中島さんのご冥福を心からお祈りいたします。

第31回丸亀お城村

い合わせ

お問い合わせ先

丸亀お城村実行委員会

〒763-0025

香川県丸亀市一番丁(亀山公園内)

TEL:0877-22-3699 FAX:0877-22-5119

E-mail:info@oshiromura.com

お城村事務局日記(外部サイト)

スタッフ用ページ